「どうして普通にできないの」とばかり言われてきたから、自分にとっては自然な選択が「他のひとにとってはそうじゃないのかもしれない」とばかり考え込むようになった。
たぶん家族のなかの誰より勤勉で、質の高い教育を受けたいと願っていたはずなのに、「あとに男の子がふたりいるから…」と望んだ進路には進学させてもらえなかった。
悔しくって、うんと勉強して、自分で自分のやりたいことを仕事にしてきた。
なにも選ぶことの叶わなかったわたしの指針はいつだって、この人生を通して、どこかのそれを求めてる誰かのために”新しい選択肢を提示すること”。
「こんな人間もいて、こんな生き方もあって、こんな価値観もあるにはあるから、それを選んでも選ばなくてもいいんだよ」というのが、ずっと伝えていきたいメッセージ。
だけど、ひょんなことから、「人間は選択肢が少ない状況のほうが幸福感を感じやすい」という説を耳にした。
ジャムの理論とは(ちなみに、はちみつ派)
路上でナンパする人はたぶん質問を簡潔に絞ったほうがよくって
「あれ〜おねえさんたちもう帰る感じ?終電何時?ていうか家どこなの?」ではその間にスルーされてしまう。
誘うなら、イエスかノーかで答えられる「あそこの店で一杯飲まない?」で充分。
これを「ジャムの法則」と言います?— さとうひより?権力 (@hi4r1_xo) 2019年2月16日
あなたがよく行く近所のスーパーの、パンのコーナーを思い浮かべてみてほしい。
明日の朝にトーストするパンを手に取って、次にそれに塗るジャムを選ぶ。
しかし、そのジャムが24種類も並べてあったらどうするだろうか?
おそらくわたしなら、「めんどくさいからもう、ご飯に納豆でいいや」とレジにすら向かわない。
これはとあるスーパーで実際に行われた実験で、「選択肢が多すぎるとストレスを感じ、もはや選択することをやめてしまう」という人間の心理を「ジャムの理論」と呼ぶのだそうだ。
知らない間にわたしたちは、選択と決定に労力を使っている
たしかに、思いあたるふしがある。
つい先日のこと。「結局どれがいちばんいいのかよくわからない」とクライアントからぴしゃりと言われてしまった場面があった。
ざっくり説明すると、わたしの提案は「これまでの投資を考えるとA案がベターだが、さらに追加料金がかかってしまう。B案なら追加料金はかからないが、これまでの投資分は無駄になってしまう」というもの。
できるだけ相手に沿った提案をして、予算や理想にあわせて最終決定は向こうでしてほしい(だって頼んだのは向こうなのだから!)というのがわたしのスタンスだし、それが当たり前だと思っていた。
だけど、それを”選ばせる”という行為自体が相手にストレスを与える場合もあるのだ。
物事をシンプルに伝えられる力こそが、いつの間にか今後の展開を左右していることもある。
そして、誰かの想いを実現するために、どれだけ上手く誘導できるかというのがプロの腕の見せ所でもあるのだろう。(反省)
そしてわたしは選ばれたい
そういえば、おしゃれの種類が少なかったあの頃。
「自分はみんなと比べてダサいのかも」とずっと頭を悩ませていたけど、ドンキのグレーのスエットにキティッパを履いて雪の中コンビニに鏡月を買いに行き、懸命にパラパラを踊った中3のクリスマスだけは人生最大にイケている気がした。
「もしかしたら、地元の同級生同士で結婚して日曜に家族みんなでイオンに出かける人生がいちばん幸せだったのでは…」と置いてかれたような気分になる日がないわけでもない。
ただ、そのほうが”幸福感を得やすい”というだけの話なのだ。
それを選ぶひともいれば、結果そうならなかっただけのわたしも間違ってはいない。
インスタグラムとか、Tic Tokとか、新しいブームを次々と選択できるこの世の中で、文章というのはもしかしたら、この先選ばれにくくなっていくコンテンツなのかもしれない。
だけど、実際に、画面の前にはこれを読んでくれているあなたがいる。
選択肢は少ないほうがいいとしても、わたしはやっぱり選択肢を増やしながら生きていきたい。
そして、そんなわたしを選んでくれるのは、あなたがいい。
#0 生存戦略を自己紹介にかえて
#1 選択肢は少ないほうがいい、だからわたしはあなたがいい。【ジャムの理論】
#2 銭湯でまんまとひっかかりたい、テンション・リダクション効果
#3 論理的思考力は論理的思考のもとに育たなくても育つ